道場破り企画 

一期目 後半戦 07年7月

道場破りとは、手塚が魅力的と感じるダンサーの手法に接近し、その道に深く触れる事で自分の道を破る試みです。2006年、個人的に始めたことが、同年の11月にSTスポットの企画として森下スタジオでショーイングに結実しました。
手法とは、それぞれが身につけた規制のテクニックではなく、即興性のある作品作りをする時の体のあり方、意識のあり方、動きの選択などが、アーティストそれぞれの独自のやり方になっていっている、その手法のことです。「いわゆる振り付け作品の作り方」でもなく、作品の構成に関する方法というわけでもない、作品の中で踊るときの法則性とでも言うものでしょうか?
2007年7月、それぞれのアーティストの手法をさらに掘り下げながら、手塚が試すだけでなく、それぞれがお互いの手法をシェアしてみました。他者の手法を見る事で、それに照らされ、自分の手法を立体的に、対象化して見る機会を得ることになりました。また、手法を交換しながら、何人かで即興を試みる実験をして、関わりの可能性を探りました。道場破り企画の動画配信はこちらです。

【共有するキーワード】

■感じ方(受信システム)→反応(アウトプットの手段)
Sense or Feel?/物事に対して、どのように感じるか?

■どの程度意識的か?
自分の感じ方、動き方、その他を意識的に選択するか?
からだを動かす時に意識的に動かしているか?

■意識とからだの距離
意識とからだは、どのくらい離れているか?

【それぞれの手法まとめ】
基本的に手塚がまとめ、人によって説明を加えてくれました。

01|コリー・ベフォート 
まず聴く。外界に向かって、「感じる」アンテナを張る。FeelとSenseの違いがあり、Feelは内側深くで感じるのに対し、Senseは外に向かってアンテナを張るような、感じ方。コリーの場合はまずSense。そして外界の様々な音や光や部屋の形など無限にある物事の中から、自分の欲求が向かう方向の何かとデュエットを踊る。例えば、空調の音とデュエットを踊り、ある時は部屋に差し込む明かりとデュエットを踊り、またある時は「部屋の形」とデュエットを踊る。デュエットを踊る対象を選択する時の意識のあり方は、「ある程度意識的」な状態から「ほとんど意識的でない」状態の間を揺らぐ。それは欲求の動く方向によって変化する。

ここで、「どの程度意識的か」という位相を表にしてみる。
すると、この表の下の方、つまりほとんど意識的でないところが手塚の踊っている状態と言えそうだ。厳密には他の要素との複合的な関係があるとは思う。しかし、ある程度、意識とからだの距離についてはそれぞれのアーティストがこの表を使って示す事が可能だと思う。

▼もう少し詳しい説明
最初、Senseを張り巡らせて聴き、デュエットを踊る対象が決まったら、入って来た感覚を→自分の内側でfeelする。そのことがイマジネーションを膨らませ、Egoの形が変化する。影響を与えてくれたお返しとして、対象に向かって踊る。

イメージを膨らませるという部分が私にとってはとても難しい。それはなぜか?
対象に意識を向け続けることが難しいのかもしれない。外界に意識を向けること自体が難しいのかもしれない。

02|福留まり
おなかの中の「ひっかかり」=おなかの中の「芯」=おなかの中の「火」など、おなかの中に感じ取る「何か」をいくつかの比喩で試す。
その何かが「動き」へと運ばれる。すばやく運ばれる。おなかの中の「何か」と動きではどちらがどちらを導いているとも言えない。「同じもの」と感じる瞬間もある。動いてる時におなかの中の「何か」から切り離されたくない。

やる前に、真空にする(スペースがある)おなかの中に聴く。真空の中にまだ残っている何かに耳を傾ける。自分の範囲を太くしたいという気持ちもあるらしい。

彼女にとって「前提となっているからだの状態」があっての、この手法なのだと思った。私がおなかの中の「何か」に意識を向ければ、そのまま動きたいという衝動には繋がらないので、何かそれ以外に体がすばやく動いてしまうような前提があるはずだ。それはたぶん、前回の道場破りで試したもうひとつの方法、つまり彼女が以前まで踊っていた方法だ。

▼以前までの手法(福留まり氏による文章)★★★★★
からだがバラバラにおしゃべりする
例えば
手をプラプラしているところに足がいきなり床をどすんと踏むところにつむじが床につこうとするけどやめるそしたら身体全体がぶるぶる震える、手の甲がいきなりおでこをぴしっとたたいて、叩かれたおでこが手の甲を押し返す・・・
みたいな感じに、身体の各所がそれぞれが自律した存在のように、勝手に動く。その事が同時に複数箇所起こったりする。複数箇所起こるときに、イメージとしては新たな動きが今ある動きに割り込みしてくる感じ。(実際に動く時は、言葉におこしたのよりももっと細かい微妙な箇所だったりもっと曖昧な動きだったりもする)

「自分」は、からだの色々な言動に、「へー」っていう感じで、ちょっとひとごとっぽい。例えば、ほっぺたが床に触れているときに、床の感触を味わっているのは「自分」というよりも、ほっぺたが単独で床の感触を味わっているというような感じで、その部分はその部分として感じているし動いているし存在しているような感じ。

この感覚が動けばいつもあるというわけではなくて、何かを触る(床を手でさわる、ひじとひざをくっつける等)とか、単純な動きを繰り返す(手を振り続ける、床に足を置き続ける等)とかを最初は割と意識的にして、主導権がからだに移った感じがしたら、バトンタッチする。(こういうところがもしかしたらアベさんに似ているのかな、と思いました。)

この動き方は、常に関心事が移っていったり、先が読めないという面白さや、自分の中にある普段はあまり出てこない凄くはっきりした人や、怒りっぽい人や、情に厚い人等がぽっと出てきたりして面白いし、多分自分にとって基本となっている「こうなってしまう」動く状態な気がします。

でも、「自分」という感覚が、わりと傍観者っぽい気がしてさみしい、と、ある時期から感じるようになり、「自分」を出発点にするというのは絶対にありながら、その延長で「自分」から遠くなりたい。というふうに思うようになりました。

それがこの間やった、お腹のなかのものを運ぶやつです。
これは私にとっては、持久力というか根気のいる作業で、でも、自分の中にあるものを出発点にして、ちゃんと途切れさせずに続いた時に、嬉しいし、今はこのことを探り続けることが自分自身にとっては重要だな、という思いがあります。
★★★★★

おなかの中の事を忘れて、カラダのいろいろな場所がいろいろな方向におしゃべりするように動き続けることを試した時、意識がまとまらない感じが「頭を使う」ことをさせないので、とても気持ちがいいし、それなりにからだの部位がバラバラの必然性を見いだしているように感じた。
また、福留まりちゃんの手法は大筋でアベさんに近い感じがする。


03|有田美香子
自分がどこにいるのかを探す。ここって思ったら核心に触れるまで掘っていく。→具体的に地球の中心に向かって「意識」を下げる。

▼具体的な方法
いくつかのフォルムを前もって決める。その時、手の平と足の裏が繋がる感覚を持つようなフォルムになるように留意する。歩きながら、ある場所に「あるからだのフォルム」を併せるように置いていく。そうしながら、からだと場所が深く繋がり、「意識」が深まっていくようにフォルムを調整する。どこの場所でどのフォルムを置くかということは、意識的に行う。繰り返しつつ、地球の中心に向かって「意識」を掘り下げる。この作業が自分のチューニングとなり、自分がクリアーになっていく、あるいは世界をクリアーに感じる状態になる。

この場合「意識」というふうに括弧書きした言葉は、「世界の感じ方」と言い換えることができるか?という問いをすると、彼女はもう少し物理的だと感じるそうだ。それはカラダの実感の延長線上にある意識と言い換える事ができるか?
意識的に、という言葉は、「ある程度意思を反映させて」と言い換えることができるか?

私の手法で使う「意識」という言葉は、自分という感覚の中から体を引いたもの、と今のところ捉えています。

普段から何かを感じる時に、彼女の「意識」はある程度深いところにあるように思う。だから「物事の感じ方」やそれに対する「反応」は無意識の領域で行われていることが多いのではないか、と感じた。手法の説明をした時、スズキクリ氏からの質問があった。「意識的に場所にフォルムを置いていく時、例えば椅子が視界に入ったとしたら、それはどんな風に見えるの?「椅子」というふうに見える?」という質問。それに対して彼女は、「椅子」というふうには見えない。物事をそういうふうには見ていないと思う。と答えた。そしてその感じ方自体、無意識にそうなっているということだった。「どのように感じているか」ということが、手法の根底には常にある気がした。

04|スズキクリ
自分の出している音に対して対象化する。ダンスと違って対象化しやすい。
その時その場所で耳を澄ます。コリーの方法に近い。
それらの音に対してどのように感じているか?→一つの音を一塊にとらえず、細かく感じる。感じる網の目を細かくする。例えば空調の音を聴いたとき、その倍音が聞こえる。それも倍音の聞こえ方は一定でなく、微妙に揺れ、メロディーやリズムを聞き取る事ができる。それらに反応している。

どのように反応しているか?いくつかの方法があると思われる。限定するのではなく、可能性を聞き出したい。と思っていたら、本人が文章にしてくれた。

▼どのように感じるか、また感じることに対する反応の可能性(スズキクリ氏の説明)★★★★★
その場の音を連続する層として聴く。具体的な方法として、最も低い音と最も高い音
に同時に集中することから
層としての「まとまり」を感じ取る。まず、その層を強化する音、あるいは層に動きを与える音、を志向しモーションをおこす。そこで発された音は表現=演奏された音ではなくて、そこに在る音として認識していく。つまり、発音する前にイメージしている状態と、発音された瞬間に知覚している状態は、ある意味切り離されているといえる。このプロセスの繰り返しが演奏=音楽を成り立たせている。
身体性(技術、フォーム)は楽器の特性に依存する。どんな楽器を使うかによって、身体性が限定されるので、逆に、自分にとって制御しきれない、バグのような部分を楽器が持っていることは重要である。予期せぬ楽器のリアクションによって、音を身体性から引き離す契機になるからだ。
楽器に焦点をあてれば、あえて、楽器=手法とみなしてしまえるほど双方は不可分だと思える。ダンスにおいて、楽器は対象化された体だとするなら、基本的な体のありようが、手法の肝となっているだろう。個人的には、その辺にフォーカスして、ショーイングに挑みたいと思っています。
★★★★★

身体性という言葉が、読み切れなかったので、詳しく聞いてみたい。「音」が「体」で、「身体性」はむしろ「意識のありよう」とも読める気がした。音楽からダンスへの言い換えをする時、「身体性は楽器の特性に依存する。」→「意識の有りよう」は体の状態に依存する。「音を身体性から引き離す」のが、「動きをからだから引き離す」より、「体を意識から引き離す」方がしっくりくる。

05|アベマリア
普段とは違う状態→ぬけのいい状態。
「ぬけのいい状態」とは、頭で考えたりして体のどこかで流れを止めてしまわない状態と思われる。
カラダの成り行きが大切。動き続ける。
アベさんは、物理的に体を動かし続けるという意味で言っていると思うけれど、もしかしたら、体の表面にはあまり表れない内部が動き続けているということでも、アベさんの手法に近づけるのではないか?
ノリのある状態。
クラブなどで踊っているノリのある状態など、ノリだけでは少し可能性の幅が広すぎて難しい気がした。アベさんのノリとは?昔、クラブで踊っているアベさんを見たが、他のお客さんがヒキまくって、物理的に避けていた。その迫力なノリとは?同じ動きを繰り返すことが、ある程度ノリをつくる助けになるという。
下丹田の意識は常に強い。底力が下から来る。
下丹田を鍛える訓練を日々、ものすごくたくさん行っているそうだ。具体的には腹筋など筋肉トレーニングも含めて。しかし踊っているときのアベさんは堅さを感じさせない。腸腰筋が底抜けに元気だという印象がある。

前回手塚がアベさんの手法を自分なりに翻訳して具体化したのは「大脳をはずし(頭の前頭葉を捨てるイメージを持って)下丹田を揺する。」
足りなかったのは「愛」のエネルギーに満ちていること。アベさんはどんなに激しく動いて人に絡んでいても、そこからネガティブなエネルギーは感じない。微震が愛に満ちているのだ。私がやろうとするとネガティブな感情が強く体を揺さぶって、「怒り」や「憎しみ」に近いエネルギーが体を動かしているようになってしまう。

下丹田を固めるのではなく、下からのエネルギーが流れて胸で花開くように意識してみたら、少し違う感じになってきた。

アベさんの「微震」はからだのどのへんからくるのか?丹田ではない気がする。気の小ささと関係するカラダの場所ではないか?それが分かると何かもう一つアベさんの無意識になっている状態を体現するヒントになるのか?

06|手塚夏子
意識とからだの距離をかなり離す。
意識を介さずに、からだの細部が他の細部と繋がる。
意識を介さずに、からだと外界が何かの繋がりを持つ。

そのような状態になったからだを、意識が観察する。

意識と筋肉を繋げない。
特に表面の筋肉を使わない。

この場合、意識と言っているのは表層の意識と言い換えることができるか?どこまでが表層でどこからが深層かは、地続きであって、感じ方が人によって違うだろうと思う。

他の人が私の手法を試すにあたって、意識と筋肉を繋げない為に、どんなことをしても良いことにする。

私が最初に試みてこのような状態になったきっかけは、からだの極小さな一部に意識を集中したことだった。また有田氏は、からだのどこにも力を入れないで立っていられる状態を試した。その時の有田氏は私の踊っている時にかなり近く感じた。
またアベさんのように、同じ動きをやり続ける、何も考えられないくらい動き続けることも、そうなる可能性高い。まりちゃんの「バラバラ」な方のやり方でも、こちらの方向性を意識すれば私の手法に近くなりそう。


【全体の感触】

それぞれのアーティストが持っている「前提」の塊が、言葉を、その人固有の使い方にしているので、それ以外の人と言葉の使い方が違ってくる。自分の手法を説明しようとする時に、一塊になっている「ある状態」は言葉にするのが難しい。

これらを解決するために、それぞれのアーティストが持っている「前提」を細分化し、対象化する作業が必要と感じた。塊は細かく分け、構成要素を整理することで、人とも共有できる言葉に対応するのではないかと思い、試みた。

また、言葉が整理できない理由の一つは、アーティストが踊ろうとする時、身体の「ある状態」が生じるのは「無意識」の領域で行われる作業が多いせいではないか。他の理由としては、自分の欲求を自覚しきれない、または頭で判断しようとしているなどが考えられる。言葉にしようとするときに、無理に客観的になろうという意識で頭を使うのは逆効果かもしれない。そうではなく、自分の身体が向かおうとする方向を細かく観察して対象化する。

他者の手法に対して否定的な気持ちにならないということも大切だ。もちろん自分に対しても。各々の認識が細かくなれば、他者に対して対応できる可能性を見いだせるのではないか。反発や摩擦も含めて。また、前提の違い、感覚の違い、意識の違いを、創造的なエネルギーに変え、むしろ一人で踊る時にはおこらないような各々の展開が生まれるような瞬間を持ちたいと思う。